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對馬紀行(補稿)                

                                         吉永昌一
平成18年5月の對馬旅行は短期間であったが大変楽しく印象に残るものでした。そこで我が人生の軌跡の一コマとして記憶に留めておきたいと思い7回に渡って書きつづけてみた。他人にお見せするほどでもない拙い文章で恥ずかしかったが勇気を出してブログに掲載しました。定年を迎えた男にとってとりたてての必要性もなく気楽に筆を走らせたわけですが時にペンを握る、いやワープロのキイーを叩くのが億劫に思うときがありました。丁度7回目を書いている時でした。對馬行きは1年前のことだったのかとふと思い、時の過ぎ去るのがいかに速いものであるか驚きました。そこで、1年たったのでこのままだらだら書きつづけてもしょうがないのでここらあたりで書き止めと決意したわけです。
ところが6月だったと思いますが都内の中年男性から突然電話をいただきました。その男性は定年前にリストラされた生命保険会社の元サラリーマンで、東京ドームの近くに住む方でした。小学生の遠足日記程度の紀行文に対して反応があるなんて想像もしていなかったので正直言って、嬉しい半面恥ずかしいような複雑な思いがいたしました。インターネットの威力を実感したわけです。
件の男性は對馬紀行を毎回楽しく読んでいる。面白いと思っていたやさき急転直下7回目で終了となっていたが少し残念である。日本海海戦の歴史的意義等についてやや物足りない感じを受けたとのことでした。そんな見方もあるのかと思いもう一度7回目を読み直してみて確かに急に幕を引いた感は否めない。それではあと一回お書きしましょうと約束し納得していただきました。

                三笠記念艦での思い出
平成19年5月27日、私は横須賀港にある戦艦三笠(記念艦)を訪問しました。20年ぶりでした。本当のところ、この日は對馬に行く予定でした。1年前對馬を訪ね島の人情と美しい景色がまぶたに残り再訪を決意した。1年前に宿泊した對馬空港近くのホテルから年賀状をいただき、5月訪問を約束する返事を出していたくらい楽しみにしていた。再訪の折には特に對馬中部の湾曲した美しい浅茅湾のクルージングと島を二分する万関橋(日露海戦に備えて掘削された水道)を水路航行したいと考えていた。10日間程度の滞在を予定していた。が年金生活者故か、旅費が何となくもったいなく感じられ中止としました。体調面の不安もありました。そこで、對馬のかわりに日帰り旅行が可能な記念艦三笠訪問となったわけです。
さて、5月27日の午前10時頃、横須賀港の三笠に行って見ると偶然にも艦内で三笠保存会主催の「日露海戦102周年記念式典」が挙行さていました。艦内の資料室他見学したあと私も三笠保存会に入会し(2000円の入会金を艦内で支払った)式典に参加を許された。保存会,海上自衛隊幹部、在日米海軍司令官、旧海軍OBそして一般参加者ら総勢300名程度が参加した式典は心に残る有意義なものでした。三笠艦尾に掲揚されている潮風にはためく軍艦旗の美しさは格別でした。
戦艦三笠(15140トン、英国製)左は東郷平八郎提督像
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         荒川海将の名スピーチ

私が特に感銘を受けたのは,記念式典における海上自衛隊横須賀総監荒川尭一海将と米軍海軍司令部のケリ-少将のスピーチです。日露戦争,特に日本海海戦の歴史的意義について簡単明瞭に分かりやすく述べられました。正直言って私が對馬紀行(7)でふれていることと大差は無いものと思いますがなにせ現役の海上自衛隊幹部の見解ですから重みがあります。歴史の見方や評価には立場によりいろいろです。明暗両方があるものです。陰と陽の両面が。負の面ばかりを強調するのもいけないしその逆も納得しません。木を見ることも大切ですが森を見ることも実に大切だと思います。できれば森を含む山脈まで視野に入れて観察する必要がありそうです。山脈や森を頭に描きながら木を論じることが必要ではないかと考えています。最近の日本では、明治開国以来日本近代史の負の面を強調しすぎる嫌いがあり日ごろより残念に思っているところです。その点、荒川海将のお話は日露戦争の、特に日本海海戦の歴史的役割、位相を世界史的観点から正しく認識されたものでした。日露戦争を大航海時代から産業革命そして近代帝国主義時代の流れの中で論じる姿勢はまことにわかりやすいもので思わず心の中で拍手を送ったものでした。日本民族の歴史に対する貢献、對馬沖でロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海軍の輝かしい栄光の業績を日本人は決して忘れてはならない。イギリス人がトラファルガー海戦を忘れないように。そんなわけで、お電話をいただいた東京ドーム近くにお住まいの男性の方に是非読んでいただきたくお二人のスピーチを後記のとおり掲載いたします。

ケリー少将のスピーチ。場所は三笠艦内前部最上甲板下のホール       
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荒川海将(左)と私
 
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ケり-少将(左)と私
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情報戦で日本海軍は勝っていた。電信室の36式無線電信機。
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三笠最上艦橋に立つ。ここで東郷提督は指揮を執った
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東郷提督のひ孫さんと(左)と秋山真之参謀のお孫さんも艦上懇親会に列席された
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正装した地元横須賀市のボランテイア。英国から来た造船関係者も英国でもめったに見られないと喜んでいた。
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      両海将との会話

記念艦三笠艦内式典で両海将が講演を行なった。その時微笑ましいハプニングが。トップバッター荒川海将の後登壇したケリ-少将がマイクを支柱から手にしようとしたがなかなか外れない。その時,最前列にいた荒川海将が素早く駆け上がりマイクを取り外し少将へ。この行動に少将がとっさに叫んだ。「This is a true partnership of the Japan-US allianace!」。私の耳にはこのように聞こえた。思わず膝を叩いて拍手した。式典後、少将に言った。「あなたの素早い反応は軍人のものとは思えない。まるで外交官のようです」。すると少将はニッコリして「Thank you very much!」と私の手を両手で握った。荒川海将ともお話しの機会があった。日焼けした柔和な顔が印象的だった。式典終了後,三笠前部甲板上で懇親会が盛大に開かれた。海上自衛隊音楽隊の「千の風になって」の演奏に思わずブラボーと叫んだ。三笠艦を後にして横須賀駅に歩を進めながら思った。日本海海戦における日本海軍の大勝は、2百数十年の鎖国から目覚めた日本民族の世界史における永遠の貢献であり金字塔である。海戦記念日は一部関係者のものではない。国民的祝日に相当するものと思える。我が青梅市で同志を募り「日本海海戦記念日IN青梅」の行事をいつの日にか実現させたいと心の中で決意した次第である。「治に居て乱を忘れず」の精神である。(完)

          日本海海戦102周年記念式典横浜地方総監祝辞

                                         海将  荒川堯一

横須賀地方総監の荒川であります。一言、お祝い申し上げます。
本日は、日本海海戦102周年記念式典が、記念艦三笠艦上において、かくも、盛大かつ厳粛に執り行われておりますことを皆様と共にお喜び申し上げます。
さて、丁度この時間に三笠艦内におりますので、102年前の今日、5月27日に一気にワープしてみたいと思います。
今、(13時35分でありますので、後4分後の)13時39分に南西方向のはるか水平線上に2列縦隊で、近づくバルチック艦隊を視認します。
この時点の各艦の状況はどのようなものであったかと言いますと、アルゼンチン観戦武官の記録によると、「各艦の舷側は、仕官、下士官の区別なく、好奇心に満ちた観察者で一杯になり、自分の配置に戻すのに苦労した」とあります。
しかし8マイルに近づき、「戦闘用意のラッパ」の後は、総員が配置につき、「真の静寂が支配し、聞こえるのは送風機と試験のために回している電動モーターの音だけであった」と伝えております。そして、その静寂を破ったものは、13時55分のZ旗の掲揚であり、「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とメガホンで各艦の隅々に繰り返し伝えられたと記録にあります。各員この信号の意味を深く理解し武者震いしていたことでしょう。以後、14時05分には敵前大回頭、10分 三笠 射撃開始 13分 三笠の初弾スワロフ命中  そして、20分 回頭完了 全艦射撃開始 そして、大勢はこの開戦へき頭の30分で決まったと言われております。
秋山真之は、「この30分間の御用(決戦)のため、連綿10年の戦争ありき」と述懐しております。
以後43分旗艦スワロフ火災発生 戦列離脱 15時10分 スワロフ北に逃走 以後追撃戦 夜間 駆逐艦及び水雷艇の夜襲 翌27日 11時53分 ニコライ1世降伏 戦闘終了 結果は実に38隻中34隻を劇は又は拿捕 ウラジオに辿り着いたのは巡洋艦1隻 駆逐艦2隻計3隻 巡洋艦1隻は南に逃走して、ベトナムのカムラン湾で武装解除と言う完勝でありました。因みに、かのトラファルガー海戦でもスペインとフランスの連合艦隊33隻中撃破または拿捕したのは22隻であります。
そしてこの海戦は、その歴史的意義、戦勝の程度、近代戦における武器の威力等で、かのネルソンのトラファルガーの海戦を凌駕するものでありました。
そして、海戦の勝因、教訓等は多くの方たちが述べている通り、適切な政軍関係、日英同盟、情報の優越、適材適所の人事等、学ぶべきことは多くありますが、私は、以下の二点は大切な事であると思っております。
其の第一は、「海洋国家の命運を左右するのは海軍」であると言うことであります。
此の海戦は、この海戦に敗れたらと言うIF(もしも)を発した場合、わが国周辺海域の制海権の獲得が、わが国に死活的に重要であると言うことを、国民全体が身を持って理解した戦いであったと思います。如何に、遼陽の会戦、奉天の会戦に勝利しても、この決戦を失えば全てを失うことを一兵卒に至るまで理解していました。
英国のトラファルガ-ナイト(海軍は無論のこと、一般市民も参加して町のレストラン等で祝う)の行事に参加して感じます事は、国民と海軍が戦勝を祝うと共に、この海洋国家における海軍の意義とそれを担う誇りを、200年にわたり毎年、連綿と、国民と共に確認し続ける行事である、と理解できます。
其の第2は、「この海戦の世界史的な意義」であります。
トラファルガーは、フランスの支配から英国とヨーロッパを救い、日本海海戦はロシアの支配から日本とアジアを救ったと言われています。しかしこの海戦の意義はもう少し大きいように思います。
地球規模での世界の歴史が始まったのは、15世紀末からの大航海時代かれではないでしょうか。そして、日露戦争・日本海海戦までの400年の歴史は、西洋による世界制覇の歴史であったと言っても過言ではないと思います。そして、この世界史の流れに大きな一石を投じたのが、ぺリー提督の黒船の来航から俄かに海軍を建設し、明治維新から僅か40年に満たない東洋の小国日本であったことは、国民の誇りとすべきことかと思います。
そして海戦から、更に100年経過したわけでありますが、この一石の波紋は、紆余曲折しつつ、未だに拡散し、世界史の流れに変化を与えているように思えてなりません。
このように考えますと、本来ならば、この記念式典は「海軍記念日」として、帝国海軍が祝ったように海上自衛隊が主体となって祝うべき行事かと思います。更に言えば、英国のように国民がこぞって祝うべき行事でもありましょう。大東亜戦争に敗戦したと言えどもこの民族の誇り高き歴史は消えないのであります。
本日の記念式典の主催者であられます、三笠保存会及び関係者の皆様は、この海戦の歴史的意義を、松明に点し、あるべき次の世代に向けて火を絶やさず運ぶ伝道者の様な尊い方々と理解しております。ここに、三笠保存会はじめ関係の皆様に対する深甚なる敬意と謝意を表する次第であります。
最後になりましたが、本記念式典の、益々のご発展と、参会者の皆様のご健勝を心から祈念いたしまして、私の祝辞とさせていただきます。おめでとう御座います。

                   記念艦三笠式典挨拶
                                         在日米海軍司令部
                                         少将 ジェームス D. ケリー 

こんにちわ。偉大なる戦艦三笠の勝利、その輝かしい歴史を称えるこの式典に参加し、三笠艦上に立つことができました事、大変光栄に存じます。
英国の戦艦ビクトリーや、米国の戦艦コンステイチューションと同様、戦艦三笠は偶像的、象徴的で、人々の心を鼓舞する存在なのです。そして三笠は、その栄えある過去や、勇敢に母国を防備した歴史へ我々を誘うだけでなく、先人が苦労して築き上げた物を守り、維持していく必要性を我々に喚起してくれる存在でもあるのです。さらに三笠は、日本海軍の海軍兵達の勇気と献身さを象徴し、現在海上で日本の防衛に当たる海上自衛隊員を鼓舞する存在でもあります。
三笠は、近代化を一代で成し遂げた日本の偉業を象徴するものです。日本海海戦のほんの37年前、明治天皇が皇位継承し明治維新を迎える迄、日本はまだ封建的な国だったのです。
若き日の東郷元帥は、英国、フランスそして米国との一方的な戦いにおいて、彼らの擁す近代的武器や艦船が、日本のものに比べいかに優れたものであるかを目の当たりにしました。1905年迄に、日本で工業・商業が目覚しく発展し、鉄道が建設、農奴制も廃止され近代的な陸軍と、一級の海軍が設立されていました。日本は国家の近代化を世界に披露しましたが三笠はまさにその近代化を象徴するべきものなのです。
また同艦は、日本や英国のような島国にとってばかりでなく、米国にとってさえ国家が健全な海上貿易を持つ必要性や、貿易を脅威から守る必要性を絶えず喚起してくれる象徴ともなっているのです。そしてそれは、102年前に戦艦三笠をはじめ連合艦隊を率いた東郷元帥が、ロシアのバルチック艦隊の攻撃を阻止し,完膚無き迄敗北に追い込んだ当時同様、今でも全く変らぬ真理なのです。
日本海海戦は日本海軍にとって、どうしても勝たなければならない一戦でした。この事実を踏まえて、東郷元帥は、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と艦隊を鼓舞し、Z旗を掲げ自ら指揮する艦艇と水兵を海戦へと導いたのです。その結果、午後の勝利は日本艦隊が、敗北はロシア艦隊が手にすることになりました。
ロシア艦隊に比べ、日本側の戦艦の状態は良好で、水兵はよく訓練され、士気が高く、日本の艦船操縦術も非常に優れたものでした。
陸においても海上においても、熊の様なロシアが日本を食い潰してしまうだろうと予想していた多くのヨーロッパの国々にとって、日本のこの勝利は非常に大きな驚きでした。ヨーロッパから多くの立会人や大使館付き武官達が、ロシア艦隊に伴い、この一戦を見学しに来ていました。
日本海軍は破れた敵国に対してもまた寛容でした。日本の駆逐艦は負傷したロシア艦隊のロジェストウエンスキー中将を捕らえ、治療の為、彼を佐世保に移送したのです。
対馬の戦いにおける日本の勝利は、歴史上最も重要な海戦の一つとして現代に伝えられ、世界の歴史を変えた戦いでした。
ロシアのバルチック艦隊は完膚無き迄打ちのめされた後、日露の戦いは日本の勝利で終わりました。戦いを通し、勝敗を分ける重要な要因となったのが海軍力でした。日本艦隊は、より大規模な敵軍を破ることで、母国の地を守り抜き、将来にわたる日本の存続、繁栄を確保したのです。
日本の海戦での武勇を示す記念艦として、日本海軍の実力を物語る証として、そして海の重要性、その重要な海の防衛が日本の継続的な繁栄に必要不可欠であるという事を次世代に伝える為にも」、記念艦三笠が保存され、後世に受け継がれていくのは非常に妥当な事です。
記念艦三笠保存会の皆様、在日米海軍と海を愛する海兵を代表し、この素晴らしい艦船と、世界を代表する海軍指揮官の記念保持に御尽力頂き心から感謝いたします。艦船三笠と東郷元海将は、日本の海事遺産であります。
皆様おめでとうございます。
ご清聴どうも有難とうございました。

追伸: お電話をくれた都内の男性の方、日本海海戦の歴史的意義等についてこれでご了解いただけましたでしょうか。
                                         
                                          以上
by omesports | 2007-09-30 19:35 | 編集長紀行

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