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2007年 02月 対馬紀行(6) [2007-02-22 16:05 by omesports]
青梅アイスホッケークラブ悲願の全国初勝利! [2007-02-19 15:37 by omesports] 青梅マラソン、歓迎中国選手団! [2007-02-08 11:48 by omesports] 「梅の公園」暖冬で梅の開花期は? [2007-02-01 10:42 by omesports] 2007年 02月 22日
平成18年5月27日午後2時小型漁船に乗り、101年前の日本海海戦の現場に立ったときは心が高ぶった。同時にほっとした。なぜなら約束を果たせたからである。いつかやろうやろうとして心に決めながら実現できないと、人間なんとなく後ろめたさを感じるものである。戦史に興味を持つ私はサラリーマン時代勤務していた水産会社で旧帝国海軍出身の黛治夫大佐に目を掛けていいただき何かとご指導いただいた。
大佐は日本海軍切っての砲術の大家で勉強家だった。終戦となり海軍はなくなり失職した大佐は極洋捕鯨株式会社に入社し捕鯨砲の研究や砲員養成等にかかわった。海軍関係の他の大きな会社へ進み栄達の選択もあったが水産の世界に入った。海軍で培った砲術の技術が捕鯨砲関係の仕事に役立つと考えたようだ。実際は、儀装にかかわった戦艦大和の46センチの巨砲に比べて空気銃のような捕鯨砲の研究には物足りずその胸中には複雑なものがあったと思われるが…。いずれにしても、永年の海軍生活で潮ツ気が身体に染み付き海から離れられなかったのかもしれない。新橋の居酒屋でふと入社の経緯と動機をそんなニュアンスで漏らしたことがある。 私が入社した昭和35年代の極洋の中核事業は捕鯨事業だった。捕鯨母船を中心として編成された大船団が南氷洋や北洋で活躍した。船団の花形選手は捕鯨船。そして捕鯨船の命は捕鯨砲だ。捕鯨船が捕獲する鯨が会社経営を左右した。いや終戦直後で食料難の日本にとって鯨肉は貴重な蛋白源だったと云える。鯨が日本人を救ったと主張する人もいる。大佐は捕鯨砲の改良開発を通して会社に貢献し広く戦後日本に恩返しをしたいと考えていた節が窺がえる。国家を敗戦の屈辱の底に沈め国民に塗炭の苦しみをもたらした大東亜戦争。特に対米戦での負け戦に日本海軍は大きな責任を負っている。大佐の心の中には誇り高い帝国海軍軍人として海軍の拙劣な作戦指導に対する後ろめたいものが生涯つきまとっていたようだ。だから、捕鯨砲を通して戦後日本にささやかながら恩返しをしたい。社内で、旧軍出身者としてやや冷遇(?)されていたように見受けられた黛大佐は、しかしじっとこらえ耐えていた節が伺える。日本の敗戦により海軍は消滅し自分の生きる場所がなくなった。そんな大佐の生きがいが捕鯨会社であり捕鯨砲だった。帝国海軍で培った砲戦の工学的技術が戦後捕鯨砲に生きたのである。海軍は消滅したが砲術のエッセンスは捕鯨砲に継承され戦後日本を救ったとの見方もできる。そんな大佐との出会いは実に他愛ないものだった。 戦艦大和が取り持った縁 私は昭和35年高校卒業と同時に極洋捕鯨株式会社に入社した。配属先は船舶部海運課で船の運航を扱う部署だった。入社前年の昭和34年に発足した期待の新事業部と聞いた。この課は後に世界最大のリーファー(冷凍船)会社に成長する。社内の優秀な社員が集められ発足したセクションとの噂だった。入社早々他課に出向き雑務をしているとある中年男性社員が「君は東大のどこ?」と聞かれ途惑った。その意味はすぐわかった。海運課は課長以下4名が東大出身で女性のひとりが早大露文科出の才媛で構成されていた。そこえ高卒の私が入ったわけである。高卒の私が何ゆえそんな注目の部署に入れたのか。入社試験の英語の成績だったらしい。「学卒を含む68名の同期入社社員の中で英語力が抜群であった」と、のちにオーシャン東九フェリー株式会社の社長となる上司であったその時の海運課長が私の結婚式で明らかにしていた。その課長は戦前満州の国策会社である東亜海運に勤務し戦後引き上げてきて極洋捕鯨に入社。私が入社試験を受けた時の人事課長だった。四国出身でスケールの大きい英語の達人だった。野球が好きでよく皇居前でキャッチボールの相手をさせられた。時の福田篤康防衛庁長官と東大の同期で仲が良く、平河町の大臣の私邸には何回もお使いにやらされた。後年、私が青梅市サッカー協会長としてどこかのサッカー大会で大臣にお会いした時はびっくりした。大臣は東京都サッカー協会長だったのである。人間どこでどうなるかわからない。 私の英語云々のエピソードについては、人生で公式に嘘が許される結婚式での新郎に対する祝辞であるから相当、80%くらいは割引して考えないといけないが、入社試験の英語の成績が私の進路に大きな影響を与えたことは確かなようである。海運は英語の世界。英語を屈指しての海外とのやり取りなど海運課での日常の仕事は実に楽しく充実したものだった。が本当のところ、自分としては営業関係の仕事がしたかったのであるが・・・。字が下手で机に向かってのどちらかと言えば内向的な仕事には向かないと思っていたからである。私のその後の仕事は経理部の外国為替業務だった。これも英語の世界でどちらかと言えばインドア業務である。人生とは思いとおりにならないもの。人はいつも先の読めない暗夜航路のような不確かな時代を歩いて行くものなのだろう。 さて、入社当時の海運課の事務所は東京駅南口前にある大きな「丸ビル」の7階にあった。その重厚な造りに圧倒されたものだ。本社は丸ビルの裏側、皇居よりの郵船ビル内にあり食事も他社の社員と一緒にとった。入社早々から、昼休みによく私は戦争の話をして周囲を楽しませた。戦史に詳しいのでいつしか私のあだ名は「連合艦隊司令長官」やくして「長官」となった。OB会に行くと今でもそう呼ぶ先輩がいる。入社当時秘書課にいた永野修身軍令部総長のお嬢さんである長野美紗子さんとは大変親しく今でも時折電話で話したりる。2年前の終戦記念日に靖国神社でお会いした時私の顔を見るなり、「あら長官お元気そうで・・・」が第一声だった。永野さんには定年直前に家で倒れ救急車で入院となった経緯等を説明しておいたからである。ニックネームの由来からして私の戦史狂ぶりは相当だったことがお分かりいただけると思う。 大和の全長は368メートル? 入社間もないある日のことだった。いつもとおり郵船ビルで昼食を済ませ、郵船ビルの隣の三菱商事ビル別館の一階広報室を見学していると戦艦大和のミニチアが目にとまった。見事な大和だった。わくわくしながら食い入るように見つめていると私は要目にビックリした。全長368メートル(あるいは338メートルだったかもしれない。定かではない)とあるではないか。これはおかしいと思いながら部屋にもどり、「大和の全長は263メートルではないのか。しかし三菱商事ともあろう会社が間違うわけないし・・・」とつぶやいた。すると隣のセクション、船舶部工務課といって船の設計修繕担当、の工務監督官から手招きされた。平素滅多に口をきくチャンスのないその監督官は引出しから古ぼけた手帳を大切そうに取り出し、「吉永君が正しい。大和の全長は263メートル!」だった。私は岡本監督官に手帳について質問すると、「これは僕が設計に関係した艦艇です」と手帳をパラパラとめくり見せてくれた。そこには戦艦、空母、重巡等岡本監督が戦前設計に関係した艦艇の要目がぎっしり書き込まれていた。岡本監督は昭和12年東大船舶工学科を卒業後アメリカのコロンビア大学に留学され海軍艦政本部の造艦大佐だった。 その日の午後のことだった。「オレは捕鯨部の黛だ。吉永クンは君か?海軍のことをよく知っているんだってなあ。若いのに偉い!」とのよく通る断定的口調の電話があった。これが黛治夫大佐とのはじめての出会いだった。岡本監督が私のことを黛大佐に連絡したのである。黛大佐は旧帝国海軍の砲術の権威として大和の初代儀装副長に就任し46センチ主砲等の儀装にかかわった。もしもである。帝国海軍があと10年ながく存続していれば、戦艦大和の艦長はおろか艦隊司令長官への栄達もあったろうと思われる(他の海軍関係者からそのようにお聞きした)黛大佐の運命は日本の敗戦と同時に激変した。海軍大学出身の黛大佐にとって戦後の運命は厳しいものがあったと想像される。勿論極洋社内での待遇も(多分捕鯨部次長だったと記憶している)海軍時代とは雲泥の差があったようだ。一切顔には出さなかったが・・・。この時の黛大佐との出会いは正に大和が取り持った縁といえそうだ。正確には、三菱商事広報室のちょっとしたミスによるものと云えるのだが・・・。 大佐から私の一身上のことをいろいろ質問された。陸軍に召集された父がニューギニアで戦死し家庭環境が厳しく中学卒業と同時に「少年自衛隊」(あるいは少年保安隊だったかもしれない・・・)への入隊を希望していたがやや左翼思想を持つ(当時としては当たり前の考え)担任の先生の強い勧めで(教育的指導?)、早く職業につき母親に孝行するため商業高校に入ったこと。小説「白鯨」に魅せられ捕鯨会社に興味があったこどなど正直に答えた。大佐は私の身の上に大変同情的であった。 ある日、黛大佐から電話があった。「吉永クン!来週日曜日、晴海埠頭に来なさい。戦後初のドイツ練習艦隊が来るので案内する。集合場所、旗艦エムデンの舷側、時間ヒトマルマルマル(午前10時)!」 日曜日に晴海埠頭に行くと数千人の訪問客でエムデンの周りはごった返していた。艦後部に設置された特別舷梯から乗艦し練習艦隊指令長官に挨拶に伺うと、司令長官は大佐と私になんと下士官2名を付けてくれた上自由に艦内の見学を許してくれた。私はその厚遇ぶりに驚きかつ黛大佐の偉大さに恐れ入った。大佐との付き合いはその後30年以上も続く。思い出話は尽きない。 ところで、前出の大和の要目のことであるが、三菱商事広報室に連絡すると数日後返事があり間違いを確認したので直ちに訂正します。有難うとのことだった。(続く) 晴海埠頭のドイツ練習艦隊旗艦巡洋艦「エムデン」の前で、昭和35年頃と記憶している。左が私で右が黛大佐。このとき大佐は60歳前後であった。今私が65歳。半世紀前の想い出の一コマである。 ![]() 2007年 02月 19日
神様がくれた奇跡のドラマだった。青梅アイスホッケークラブ(監督:関義己、東青梅)が第74回全日本アイスホッケー選手権大会で悲願の初戦勝利を飾った。日本全国各地の予選を突破したプロアマ32チームによるこの大会はアイスホッケー界最高権威の大会だ。今年は2月7日から12日にかけ青森県八戸市と三沢市で開催された。この地で全日本選手権が行なわれるのは終戦直後の昭和22年の第15回大会以来実に60年ぶり。戦前から氷上スポーツが盛んな土地柄だけに街には「歓迎」の張り紙があちらこちらに張られ地域を巻き込んで盛り上がりを見せていた。
東北高校に6-5で奇跡の逆転勝ち! キーパー水野裕、金城鉄壁の守り! 青梅は東京大会を制し3回目の出場だった。過去全国大会には2回出場しているがいずれも初戦敗退の屈辱だった。全国の壁は厚かった。3度目の正直にかける選手の思いは凄まじいものがあった。キャプテン奥住尚弘(東青梅)が引っ張る青梅は1回戦シード。2回戦でインターハイベスト8の東北高校と対戦した。会場は八戸市の新井田インドアリンク。東北は1回戦で関東代表の社会人チーム「ケッターズ」(神奈川県)を3-0で撃破し波に乗っていた。若さ溢れる怒涛の攻撃力は脅威だった。1P(第1ピリオド)ゲーム開始早々、青梅は退場者を出すなど苦しいスタートとなり7分にカウンターから失点し14分にも2点目を失う。苦戦の青梅は2Pの2分に3点目を失いさらにペナルテイの退場者を3人だすなど大ピンチ。目の肥えた観客に、「青梅の勝ちはない」と映ったに違いない。しかしベンチは冷静だった。関監督は東北の選手に攻め疲れを見てとり選手にハッパをかけた。青梅のパス回しと連係プレーが徐々に良くなる。特に、キーパー水野裕(藤橋、青梅総合病院勤務)が好セーブを連発し勝利に貢献。そして2Pの16分相手ゴールに攻め込んだ青梅は密集の中、FW川口悠(成木、青梅腰痛センター勤務)が巧みなステイックさばきからプッシュして待望の初得点。苦しみぬいての得点だけに選手全員ステイックを突き上げて喜びを爆発させた。これで選手の肩の力が抜ける。攻撃にリズム感が出る。忠実なマーキングからパックを奪取しカウンター攻撃が冴える。19分にはFW渡邊賢志がゲットして2-3と追い上げる。青梅の反撃ムードは最高潮だ。 山崎浩市決勝ゴール、高村忠伸価値ある3アシスト! いよいよ3Pに奇跡のドラマが起こった。ゲームは激しい点の取り合いとなり両軍選手によるステイックを振りかざしてのボデイーアタックはまるで氷上のK-1の感があった。開き直った東北が開始直後加点し2-4。しかしひるまない青梅は2分、元実業団コクドで活躍したDF山崎浩市が意表をつく執念のミドルシュートを決め3-4と意地を見せる。キーパーの頭上を越えるこのシュートはまさに芸術的かつ豪快なゴールだった。勢いに乗る青梅は6分、FW小林靖典が左から切り込みゴールを決め4-4のタイとした。「もしかしたら・・・」リンクに青梅大金星の期待が。しかし東北も7分に1点を返し5-4と再逆転。ここからが劇的ドラマの始まりだ。青梅は12分、川口悠がこの日2点目となるミドルレンジからゴールを決める。「打ったときパックがゴールに飛んで行くコースが見えた!」と語るとおり川口は冷静だった。この同点ゴールは東北にとってショックだった。選手が一瞬下を向く。この動きを青梅は見逃さなかった。フェイスオフ直後の10秒、東北ゴールに殺到した青梅はまたも山崎がゴール前で頑張り自身の股に当たったパックを相手選手に身体をぶつけながらゴールに押し込んだ。一瞬の隙をついた泥臭い値千金の劇的ゴールとなった。全国大会1回戦突破を記念する歴史的ゴールだった。残り1分、東北はキーパーを上げ全員攻撃を仕掛けてきたが青梅も身体を張って頑張りスコア6-5で逃げ切った。最後まで緊張の糸は途切れなかった。タイムアップのホイッスルと同時に青梅全員がバンザイ!ヘルメットを投げ捨てステイックを放り上げ互いに抱き合いリンクに喜びを爆発させた。 この日3アシストと得点にからみ縦横無尽の活躍を見せたFW高村もチームメイトの手荒い祝福の中で嬉しい悲鳴を挙げていた。 青梅の敢闘精神は観客に感銘を与えた。地元の熱烈アイスホッケーファンのあるご老人は、「こんな試合を見せてもらって本当によかった。冥土の土産になる」と語っていた。マラソンの市(まち)青梅の若者が大きな仕事をやり遂げた。監督と選手に心より拍手を送りたい。 キャプテン奥住尚弘選手の話 「大舞台での勝利はうれしい。必死で戦った。全選手がひとつになって最後まで頑張った。さらに上をめざしたい」 決勝ゴ-ルを決めた山崎選手の話 「ゴ-ルは全員でとったもの。自然と身体が動き押し込んだ感じだった。うれしい」 関監督の話 「この1勝は最後まで諦めない選手の執念が実ったもの。3点先行された中でよく盛り返した。選手の精神力は立派だった。負けたとはいえ大学王者からの1点も意義あるものだ。この勝利を次につなげたい」 学生王者東洋大に大敗 3回戦で青梅はインカレ優勝の東洋大学に1-16で敗退。2Pの1点が精一杯だった。大学チャンピオンの破壊力は桁外れだった。青梅アイスホッケークラブを取り巻く環境は決して良くない。練習リンクも市内にはない。企業のバックアップもない。そんな中、若い関義己監督以下選手は手弁当で試合に臨み全力を尽くした。この勝利は選手に、「やれば出きる」と自信をもたらした。青梅アイスホッケーの将来のために好影響をもたらすにちがいない。青梅クラブの地元スポーツ界に対する貢献は計り知れない。アイスホッケーへの関心がいっきに高まりそうだ。(青梅スポーツ北日本通信部:佐々木文輝) 選手名:GK水野裕、岡野利則 DF遠藤慶至、丸山朋宏、山崎浩市、黒澤英司、吉岡茂樹、田辺隆史 FW小林靖典、藤島義久、渡邊賢志、山口智之、小沼勇規、菅原卓也、川口悠、葛西智裕、高慎一郎、大野好章、中西三知、諸井昌典、奥住尚弘、高村忠伸 全国大会で悲願の初勝利に輝いた青梅アイスホッケークラブ ![]() 東北高校の猛攻をキーパー水野裕を中心に身体を張って守った青梅クラブ ![]() 元コクドFW山崎浩市の力強い突破!2得点と勝利に貢献した ![]() 2Pの16分、青梅はFW川口悠(19番)が待望の初得点を上げる。FW高村の好アシストが光った。これで青梅は波に乗った ![]() ロングシュートを放つ23番FW葛西智裕 ![]() 東北高校の猛攻をしのぐキーパー水野をたたえるチームメイト ![]() 相手のパックを奪い反転、速攻に移る青梅クラブ。スピーデイーな攻撃は素晴しかった ![]() 東北高校の厳しいプレッシャー中反撃に移る青梅、青梅の気迫は最後まで途切れなった ![]() 戦況を見つめる関義己監督、監督の好采配が勝利をもたらした ![]() ハーフタイムのロッカールーム。勝利に貢献し終始チームを引っ張ったキャプテン奥住尚弘(91番左端)がチームメイトを鼓舞激励していた。 ![]() 東北に逆転ゴールを許す。スコア5-4!しかし青梅の選手は下を向かなかった。気落ちしないで直ぐセンターサークルに戻った。勝利への意欲を最後まで持ち続けた ![]() FW山崎が決勝ゴールを押し込んで青梅が6-5と逆転!ゴール直後万歳するFW奥住尚弘(91)とFW渡邊賢志(11) ![]() 全国大会初勝利の瞬間!選手はリンク上で喜びを爆発させた。3番小林靖典24番黒澤英司 ![]() 2007年 02月 08日
2月4日(日)第41回青梅マラソン大会が開催された。東京マラソンとの日程調整など問題がいろいろあったが、当日は青天に恵まれ気温12度と暖かく30キロと10キロレースに15、000名以上の市民ランナーが奥多摩路に健脚を競った。危惧された東京マラソンの悪影響はほとんど感じられなかった。青梅マラソンはしっかりと大地に根を張りファンに愛されている。青梅のマラソン関係者は一段と自信を深めたようだ。
この大会の10キロレースに中華人民協和国から高校生選手3名が参加した。団長が前年に続きルウ・ヤンミンさん(北京市人民対外友好協会日本部科長)、団員劉紅、コーチ満江さん。北京市の高校1年生の3選手は普通の高校生でマラソンは全くの素人。全員自費参加だった。 2月2日午前に北京空港を発ち成田空港へ。電車で東京駅経由JR青梅線河辺駅に午後到着。夕方、青梅市総合体育館近くの中華レストラン「バーミヤン」での青梅市日中友好協会(会長:小澤恒夫)主催の歓迎宴に臨んだ。本紙は二日間にわたり密着取材を行なった。一行はレース後4日の午後都内に移動し一泊し翌日成田より空路北京に帰国。「3人の若い高校生にとって良い思い出になったと思う。これからの人生に役立つでしょう。将来日中のお役に立つ日がくるでしょう。青梅の心温まるもてなしに心より感謝します」と団長は嬉しそうだった。高校10キロ男子の部で張君が100位李君180位、高校10キロ女子では劉さんが38位と頑張った。以下フォートレポートである。 2007年 02月 01日
暖冬異変。この調子だと今年の梅の開花は相当早まりそうだ。新聞テレビでこんな声がちらほら聞こえる。実際はどんなものだろうか。青梅市の「梅の公園」に足を伸ばしてみた。
1月28日(日)午前9時、旧吉野村、現在の青梅市梅郷地区にある「梅の公園」に行ってみた。珍しく風も無く厳しい寒さを感じさせない朝だった。自宅から公園まではおよそ徒歩で10分。途中殆ど観光客にはお目にかからない。散策中の中年の男性ひとりと登山姿のカップル、こちらも中年に見えた、の姿だけ。日の出山?それとも御岳山に向かうのだろうか。あまり重装備を感じさせない。むしろ軽装といった感じだ。大寒を過ぎた1月下旬なのに、真冬の雰囲気はない。暖冬を象徴しているようだ。毎年梅のシーズンには10万人以上の人が訪れごった返す公園はひっそりと「冬眠中」である。巾2メートルほどの沢を流れる水の音がチョロチョロと力ない。 沢にかかっている公園入口の橋を渡ると広場である。見上げると梅の木が斜面にそって空に向かって静かに息を潜めている。近寄ってみるとつぼみは又まだ固い。やはり開花はいつものとおり3月か。近所の知り合いが早咲きの紅梅を見たと言っていたが・・・・はてどのあたりだろう。やはり梅の花はまだまだとあきらめていると目に付いたものがある。よく見ると、決して派手ではないが赤色と黄色の花がひっそりと二重奏を奏でている。濃い紅色は我が家にもある見慣れた椿の花である。背丈が2メートルほどの黄色の木は「ロウバイ」。梅と勘違いしそうな蝋梅の木である。頬を寄せると甘い香りがぷーんと匂う。蝋梅の木が数十本もあれば観光客も増えるだろうにと思われた。 さてさて公園の頂上付近への興味も無く、実際は年齢からくる体力不足のためで、もと来た道を戻ることにした。途中吉川英治記念館の和菓子処「紅梅苑」の寄り道をと考えたが時間帯的にも客足は無くひっそりとしている感じだったのでいつものコーヒータイムはやめにして写真を一枚パチリ。紅梅苑の対面にある「こんにゃく屋」さんに寄り道。ご主人の伊藤武夫社長は、「暖冬だが季節は案外正直かも。やはり見ごろは3月でしょう」と店の前の梅の木を見上げて一言つぶやいた。 近くの神代橋からから眺める多摩川の静かな流れは陽光に映え、例年よりのどかに感じられた。もうすぐ梅の観客で賑わうだろう。清流にはカヌーが2艇妙技を披露していた。多分今流行のロデオカヌーに違いない。春は近い。 「
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